音楽はいつ、神から人の手へともどってきたか

9月27日(月)、私の大学デビューが近づいてきました。

授業内容は、13回分ほとんど出来上がっていますが、
大事なのはやはり、第1回。そこの内容を、今、詰めている最中です。
物事、最初が肝心ですからね~

「非言語コミュニケーションとして見た西洋音楽」

という、大学からの「お題(観点)」を頂き、
改めてクラシック音楽の世界を眺めてみると、
今までと違った「景色」が見えてきます。

第1回目の授業では、

音楽表現において、言語的要素が担う役割は意外に小さいこと
  (声楽作品は、歌詞は言語による伝達を担うが、それよりも
   非言語的に伝わることの方がはるかに大きいこと)

を「体験」していただこうかと。その仕掛けは、当日までナイショです。

第1回目の授業の、もうひとつの柱が、

西洋音楽(書き残されている芸術音楽)は 誰に 何を 伝えるべきものか

「神」にさえ伝わればよかったものが、
「人」の心を動かすものに変わったのが、
ダ・ビンチ、ガリレイらが生きたルネサンス時代。
そして、それを権威の象徴として政治的に利用する
生身の人間の手中に完全に堕ちたバロック時代。(←悪い意味じゃないですよ^^;)

ここの、「神」から「人」への境目のところを今、調べ直しています。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪

しかしですね・・・
ワタクシ、学術書を2時間読み続けると具合が悪くなるっていう・・・(←おいおい・・・)
さっきなんか、疲れてふっと絨毯の上に転がったら、
日本家屋に閉じ込められて、外から命を狙われているっていう、
超怖い夢まで見た。(←ほんと、大丈夫か?私)

で、気分転換で、ついったー見てたら、そこ経由で興味深い一文を発見♪
怪我の功名?
「メディアの発生-聖と俗をむすぶもの」という本を紹介した、あるブログの一文です。

「・・・浪花節にしても盆踊りにしても、耳や身体でその場、その時間に参加して味わうもので、
その形は固定されていません。ましてや旅ともなれば、自らの日常を離れて、
非日常的な空間・時間に自らの積極的な体験を通じて飛び込むことになります。
それは誰が受け取っても情報そのものには変化のないテレビやインターネットの情報とは異なり、
受け手の積極的な関与によっては情報の形そのものが変化するインタラクティブな性質をもった情報です。」

(DESIGN IT! w/LOVE
http://gitanez.seesaa.net/article/160359385.html
「メディアの発生-聖と俗をむすぶもの」)

この文を書いた方は
「このインタラクティブな性質をもった情報というのは、
さかのぼれば神との交信につながる」
というご意見をお持ちのようです。

その時その場限りで消えて無くなる運命にある、Performing Art。
西洋音楽でいえば、その源泉は単声聖歌にあり、
中世までは確かに、神への交信または発信
(神から何かを受けとることを前提としていたかは分からないので)であった訳です。

それが、どのような経緯をたどって、
生身の人間の心を動かすように方向転換をしたのか、
そこのところを、もうちょっと、虫めがねや顕微鏡で覗いてみたい!と思っております。

でも閉じ込められるのも命狙われるのもいやだぁぁぁ~~~
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by cembalonko | 2010-08-31 00:42 | 知的好奇心 | Comments(0)