お話の続き。

音楽って、本当に最初は、神のために作られたものだった???
神様を喜ばせれば良いだけのものだった???

Yes, and No.
もともと音楽には人の心を揺さぶる力があったんだよねー

砂漠の乾いた空気も届かない、パレスチナの深い洞窟の奥。
弾圧されていた、初期キリスト教の祭司が、
キリストが十字架上で苦しむくだりを、声を張り抑揚をつけて朗誦する。
暗がりに居並ぶ信徒たちは、それをじっと聞いている。
エコーしながら雷のように響く、聞いたこともない声音の波。
それに呼応して、信徒たちもいつの間にか、
叫びともむせび泣きともつかない声をあげていた・・・

「音楽」が、人を非日常に引きずり込むっていう
その底力を認めていたからこそ、
初期キリスト教の聖職者たちは、信徒を増やすために、そして
異教からの改宗者を固定するために、それを「利用」したんだよねー

でも・・・その底力は、同時に、恐れられてもいた。

なぜなら、当時の有識者(=聖職者や研究者)には、
「教会で歌われる聖歌は、人の心を喜ばしてはいけない」
っていう、ギリシャの哲学者から受け継がれた「呪縛」があったから。

アリストテレスもプラトンも、「いい音楽を聴かないと正しい人間は育たない」
と考えていた。
アリストテレスは
「もし、人が卑劣な感情を目覚めさせるような音楽をいつも聴いていると、
その人の性格はゆがめられる」と言ってるし、
プラトンは「正しい人間を生みだすには、肉体を訓練するために体育を、
精神を訓練するために音楽を推奨する。
しかし、もっとも適切に魂に供されるべき音楽はほんの一握りしかない」と言ってる。
要は、音楽は「そのものが美しいから」「心を動かすから」という理由で
聴かれる対象ではなかった、ということなのよ。
逆に、心を揺さぶられることは「悪」で「罪」だった訳。

だから、聖アウグスティヌスみたいに悩んじゃう坊さんが現れる。
その声を聞いてみよう。

「私は、教会で歌を歌う習慣を認めたい。
それは、耳の楽しみを通じて、弱い者の心を敬虔の念に目覚めさせるためです。
しかし、歌われる内容よりも歌そのものによって心が動かされるようなことがあれば、
その時私は、許し難い罪を犯しているのです。」

・・・いや、そんなに悩まなくても・・・あなたのせいじゃないからさ・・・

さて、音楽はいつ、神から人の手へともどってきたか。

これは、言い換えれば、
人々がいつ、プラトン以来の呪縛から解かれ、
音楽の美しさに心を動かされても「罪」と思わなくなったか、ということなんじゃないか?
人間がいつから、「音楽そのものの美しさを享受してもいいんだ!」って
認められるようになったか、ということなのでは?

プラトンの「神の美を思い出させるためにだけ存在するこの世の美」が、
「この世を享受するために存在する私たちの美」に変わったのは、いつ?

今日はこの辺で! (^^)ノ” see ya!

(今日は絨毯の上でうなされなかったよー ←やっぱり寝たんかい!?)
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by cembalonko | 2010-09-01 01:05 | 日々のいろいろ | Comments(10)

Commented by saskia1217 at 2010-09-01 17:13
「音楽が心を揺さぶることは悪である」
洋の東西、時代を問わず、それと闘った(闘っている)音楽家がどれほど多い事か・・・
教会の中で音楽を担うとき、そして特に自分が音楽家であるとき、そこにまつわる非難と誤解と無理解に日々立ち向かわねばならない現実・・・何よりも「音楽」の神聖さと、音楽に対する畏敬の念までもひっくり返されることが悲しいです。
音楽家の存在意義まで潰してしまいかねない感覚の相違には、本当にウンザリしています。
いやいや、戦いの日々!
教会と音楽ってお互い必要不可欠の存在のはずなのに、何故こんなことになるんだろう???
Commented by cembalonko at 2010-09-02 08:39
えー!?未だにそんな状態なんですか???
現在進行形で、プラトンさんの遺物が生きている???

教会のように、良く言えば伝統と権威がある、悪く言えば凝り固まった組織の中では、
音楽は(以前saskiaさんが書いていらしたように)「取扱注意!」のシロモノで、
現在でもそれだけ、音楽の持つ力が恐れられている、ということなのかしら?

実際に非難を受けることがある場合は、
それは選曲によってでしょうか?演奏内容によってでしょうか?
Commented by saskia1217 at 2010-09-02 21:06
ん〜、もちろん全部の国の全部の教会(宗派)がそうだとも思いませんけど、やはり全く無いとは言えないと思いますね。
もしかしたら日本の教会だけの特殊性かもしれませんが・・
非難されるとしたら選曲、演奏両方あると思いますよ。
選曲の場合は宗派や教会側のコンセプトさえ知っていれば却って単純なことなので問題ないのですが、演奏となるとやっかいです。
例えば(自分では全くそんなつもりが微塵もなく、ただ礼拝やその場のために一生懸命弾いているだけであっても)、技術的音楽的にレベルが高ければ高いほど「演奏者個人を表現していて(ひけらかしていて)、礼拝第一という本質から外れている。」という非難を受けることが多いです。
「はあ???」って感じです(苦笑)。
ほんと〜にヤッカイです・・そういうのって説明してもわかってもらえないどころか、そう思い込んでいる人にとっては逆効果なんですよね〜。
聖職者も信徒もいろいろな人がいますから・・
(こんなところで愚痴ってしまいました。スミマセン・・・苦笑)
この話、始めたら3時間くらいかかりそう!
Commented by cembalonko at 2010-09-02 22:43
では続きはまた、お目にかかった時にでも・・・(笑)

演奏に関するやっかいなツッコミの件、
こういうお答えが返ってくるかもなー、と予想はしていました。
ゴメンナサイ、外野だから言っちゃうけど、
一生懸命演奏しているのに「ひけらかして」いて
「本質から外れる」と言う方々は、
神様の前では平等のはずなのに、そうじゃないじゃん!?
って感じなければならないのが、嫌なのでは?

演奏者として見たら、ありのままの自分よりも
上手く弾くこともできなければ、下手に弾くこともできないですから・・・
お疲れさまです・・・ほんと・・・
Commented at 2010-09-02 23:09 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by cembalonko at 2010-09-03 09:16
いつもコメントありがとうございます。
せっかくなので公開でお願いしてもいいですか?
こういう貴重なご意見は皆でシェアできれば、
ブログの読者の方々の参考にもなると思いますし・・・
Commented at 2010-09-03 10:33 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by k,n.in Kobe at 2010-09-05 20:51 x
一連のエントリーとコメント、大変興味深く読みました。司祭にして詩人という文人を研究対象にしていますので、信仰と音楽、の
音楽、を文学にすれば、直ちに私にも差し迫った問題になります。
 「御名(=神の名)が尊まれますように」が第一義、なのが信仰の論理なのでしょう。とすればどうしても我(ら)=人側の行為に、たとえそれが礼拝上の行為であれ、名誉欲への傾きを見て取るのは信仰者としてはやむを得ないと思うのです。奉仕者の方にはお気の毒ですけれど、原罪意識が強い真面目な司牧者であればある程、神の技と対立的に人の技を見る傾向が強くなるのは理解はできます。
 ただスタートが原罪の意識であっても、技も含め最終的には人間の行いが嘉される「至福直観」がないと、信仰は全きものとはならない、とも私は推測します。教父の中でも特に反芸術的なアウグスチヌスに「歌う者は二度祈る」という言葉があるのは示唆的ですね。art , heart そのいずれにもあろう(自覚的、無自覚的)「欠け」が「歌う」ことで蔽われるからこそ、「二度祈る」ということになると思うのですが...


Commented by cembalonko at 2010-09-05 22:02
2日間寝込んでいまして・・・リアクションが遅くなり申し訳ありません・・・

k.n.in Kobe様、ご意見を公開して下さってありがとうございます。

神は、奉仕されるものの技術が高いか低いかは、どちらも嘉とされる。
そこのところを、信者さん達の無理解に苦しむ奉仕者を助けるために、
教会側がきちんと伝え直してくれたら良いですね。

教会側から非難される場合は、受け入れられないのなら
ストレスになる前に手を引く。
奉仕のためにいざこざが起きることこそ、神様は望んでいないでしょうから。

この世知辛い時勢に、プロである人が無償で奉仕してくれる、
こんな貴重な機会を、
教会側が手放してしまうのがいいかどうかを、考えられたらいいのでは?
失う前に、教会側も手を打たなくちゃ、と思います。

PS.うちのダンナが「えらい先生方のお話には難しくてついていけんわー」と言っていました^^;
一応、イエズス会の学校出身のはずです・・・???
Commented by k.n.in Kobe at 2010-09-05 22:36 x
ダンナさまに「難しい」と言われたか...平明に書いたつもりですが読んでみると確かに漢字が多くて紙に印刷したら黒そうです。他分野の方に読んでもらえるのが目標の身としては要反省です。
 もうちっと本題に近い話になりますが、イエズス会は意外に(?)
親芸術的な感じがします。使えるメディアは何でも使って「天上」
のものを「地上」に伝える、かつ伝えられるという精神で動いていると思います。カトリックの中でもアウグスチヌス会、とか、アウグスチヌス会司祭だったルターがスタートさせたプロテスタント、と
は違う意識で動いていて、ダンナさまが「何を小難しいこと...」
というのはこの辺りも一因、と察します。それでもO光学園は、
スパルタとアテネ、どちらに近いかと言ったら、やはりスパルタ
に近かったと思いますが。
 夏風邪でしょうか、お体大切に。