帝の恋の果て

まさか、この歳になって、ここまで真剣に
「かぐや姫」のお話を読み込むことになるとは、
思ってもいなかったのですが・・・

10月の「語り」公演・「竹取物語」の音楽がほぼ、完成し、
語り手の野田香苗さんと、演奏上の細かい表情、
演奏を始めるタイミング、終わるタイミングなどを
すり合わせる作業に入っています。
その作業をするにあたって、私自身も、
相当深いところまで、この物語を読み込まなければいけないことが
分かったのでした。 (国語力が問われるのダ! 汗;)

この物語のクライマックスは、
かぐや姫が月に上っていくところ、
と、思われるかもしれませんが、
おしまいに出てくる
帝が手紙と不死の薬を、山の上で焼くシーン・・・
私はこのシーンが、一番、
胸を締め付けられる思いがするのです。

紫色の細い煙が、長く高く、天へと上っていくのを、
黙って見ている帝の姿。
もしかしたら、かぐや姫と心を通わせられていたかもしれない帝の、
「切なさ」そして「あきらめ」。
ここには、愛するものを生死が分かつ、という、
生きとし生けるものが、避けては通れない悲しみと、
その悲しみに直面した「人」への洞察が、
込められていると思うのです。

「手紙を焼く」という行為。それは、
中世の日本では、神へ、願いを伝える手段だったそうです。(↓参照)
神へ(=または、決して届くことのない者へ)の思いを託した手紙の、
その煙を見届けることで、
願い(思い)が届いた、と、人は信じ、
どうすることもできない悲しみを、
せめてその煙を眺めている間だけでも、和らげる・・・ そんな、
避けられない悲しみと隣り合わせにいる「人」への優しさが、
「竹取物語」の作者に、この最後の一ページを書かせたのでしょうか。

誰もが子供の頃に読んだことのある「かぐや姫」のお話。
ただの「おとぎ話」ではない、と本気で思う、今日この頃です。


「姿としぐさの中世史」 黒田日出男 著 平凡社 1986年より
・・・中世の人々は、人間ではない相手すなわち神仏などに自らの意思を伝えるために、文書を焼く行為をしたのだというのである。その場合、焼けて立ちのぼる煙を見ることは、自分たちの意思が天に届きつつあることの視覚的な確認であり、文書が灰になることが、相手がうけとったことの証明であり、一種の神判となっていると言うのである。・・・

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by cembalonko | 2007-08-18 00:57 | 日々のいろいろ | Comments(0)