カテゴリ:古武道( 63 )

サフランの花

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あまりに凛とした姿をしていたので、
思わずパチリ。古武術の稽古へ向かう途中にて。

しばらく書いていませんでしたが、
古武術の稽古も続けています。
あまり進歩はないですが、
週に数回、自分の心と体に真剣勝負で向かい合える時間は、
とても貴重です。

今日、師範から伺ったことをメモ。
合気道の「合気」とは、
もともと剣術から来ており、
本来「合気をそらす」という使われ方をしていた、とのこと。

「合気」とは、技をかけるときの「預け、預かり」の状態で、
陽明洞道場では普段から当たり前にやっていること。
でも、かつての剣術家は、それをすると
実力のある方に必ず歩があると考え、
強い相手に対しては、
「合気をそらすべし」としていたとのことです。

自分より強そうな相手であっても、
敢えて「気を合わせる」のは、怖い。
それでも、相手を飲みこむ訓練は、
厳しい精神修養であるはずで、
そういうことを普通に求められている場で
稽古できているんだな、と再認識。
改めて、幸せに思いました。

…もちろん、出来るか出来ないかは別の話として…(汗;

♪♪♪♪♪

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by cembalonko | 2016-09-21 13:08 | 古武道 | Comments(0)

身体の意識を消すこと

今日は午後中、リハーサルだったのですが、
「練習したはず」「こういう風に弾くことに決めたはず」
と思っていたのに、全く意志が指先に伝わらなくて、
なかなか辛い思いをしました。

以前の私なら、この「伝わらない」テンションのままでも
弾けるようにならなきゃダメ、と、
いつまでもあがいていたと思います。
でも、それは間違っている。
最近、ようやく気が付きました。

でも今日のところは、残念ながらその「伝わらない」テンションから
最後まで抜け出すことが出来なかったのですが。

=====

昨日の古武術の稽古で、
師範が、私に組み型の稽古をつけてくださっている時に
おっしゃった言葉がありました。

「身体の意識を消すのは、身体を生かすためである」

何にも囚われのない状態は、無限の可能性を秘めている、ということ。

じゃあ、私は何に囚われているのかというと、
動きを予測したり、相手の力を推し量ったり、
人間の本能として、当たり前のようにいろんなことを「意識」している。
「意識」の大半は、この世に生まれてきてから、
経験や教育によって培われた、大脳の働きなのだ。

自分が、大脳でイメージできることしかできなくなること。それが、すなわち
「囚われのある状態」。
大脳の働きを消す=自分が「身体」と思っている物体をも消し去ってしまう。
そして自分が対面している相手も。
そうすると、本来人間が持っている、
自由で、文字通り「想像を超えた」能力を発揮させることができる。

=====

今日の私、というか、これまでの自分はずっと、
こう弾きたい!という心から湧き上がってくるものよりも
弾こうとする「身体」に、意識がありすぎることが、圧倒的に多かった。
指や腕だけではない。身体全体をコントロールしようとする意識に支配されてた。

「身体の意識を消す」ことは、訓練しなくてはできるようにならない、
と師範はおっしゃっていたけれど、
石の上にも三年。私は古武術を初めて七年になり、
「できたかな?」と思う瞬間も少しずつ増えてきました。
「早くもっと進歩したい!」という気持ちはムラムラ湧き上がりますが、
それは別の「囚われ」になってしまいますので、
今日はこれで良いことにします。Good Night☆

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by cembalonko | 2014-06-17 23:24 | 古武道 | Comments(0)

喫茶去

戦国時代、武将たちがいざ決戦に向かう前に、
戦地にしつらえられた仮の茶室で、
その時だけは刀を外し、お茶を一服、供されたそうです。

その茶室に見立てられた空間は、
肩を触れ合わせるくらいの「間」しかなく、
武将たちは、生きている間に戦いを忘れられる、最後の一時になるかもしれないその一服のお茶を、
大変喜んだということです。

この話は、古武術の稽古中に「間合い」について師範から受けた説明の中に出てきた話で、
要は、相手がどんな技をかけてきても届かない「間合い」から
届く「間合い」に入って行くときに、
意識が切り替わる=相手に対する緊張が生まれる
境界線がある。

そういう間に敢えて自分を置くことは、相手への絶対的信頼がなくては出来ず、
そうした、普通なら「戦闘態勢」であるはずの「間」を、それを持ち込ませない「間」に替えることが
「おもてなし」だという、師範からのお言葉も。

「喫茶去」とは「一期一会」に似て、
この一服のお茶を共にした一瞬後には命を落とすかも知れないが、
だからこそ、その一服を味わい尽くし、その一時を感じ尽くす。
そんな意味だそうです(禅語)。
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by cembalonko | 2014-06-04 22:48 | 古武道 | Comments(0)

陽明洞道場 級位認定審査

今朝はいつもより早めに古武道の道場へ向かい、ウォーミングアップ。
というのも、級位認定審査の日だったからです。

道場の玄関には、いつもと違う靴が。
あら?どなたかしら…と思っていましたら、
先週の土曜日から、遠く福島県から
禅宗の僧侶の方が入門していらっしゃったとのこと。
今日は認定審査が行われるまでの間、
その方と一緒に稽古させていただきました。

陽明洞道場のバックボーンは「禅」なので、
師範がその僧侶の方に、私には分からない4文字熟語(多分…)?
禅用語?を使いながら指導されているのを、
少しだけ羨望のまなざしで見ておりました。
きっと通じるものが沢山おありになるのだろうな~と…

…それに引きかえ私は、無心どころかいつまでたっても雑念だらけ…

とはいうものの、初めての認定審査は、
時々 技の順番を間違えたけれど (いいのか?)
こちらの通り♪合格いたしました!

音楽と同じく、道を極めるのは一生涯の課題。
でも、一歩前に進んだことが形になるのは、やはり嬉しいことです。
\(^o^)/
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by cembalonko | 2014-04-30 15:55 | 古武道 | Comments(0)

「弓と禅」

横浜にいる間に、ぼーっと海を見ながら、
ずっと読みたかった本を、やっと読み終えることができました。
E.ヘリゲル著「弓と禅」。
ドイツ人の哲学者ヘリゲルが、6年間の日本滞在中に、
東北帝国大学で教鞭をとりながら、弓道の師範に弟子入り。
弓道の修行を通して、
禅の奥義に触れる過程が記された本です。

弓と禅」は、10月の演奏会を聴きにいらして下さった
陽明洞道場の師範代から頂いたものでした。
師範代も20代の頃より大事にされてきたご本だそうです。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪

私は、物心ついた頃から
西洋の考え方を教えられて育ちました。
ピアノやチェンバロを弾いて、
とにかく夢中で、西洋音楽を理解しようとしていたので、
冷静に考えれば無理なのに、
脳内だけでも、西洋人そのものになれたら・・・
なんて、思っていたこともあったかも。
ドイツ語を話すことで、性格が変わったことも経験しましたしね・・・

けれども、この歳になって、古武術に触れ、
日本人の精神基盤の「金の鉱脈」を掘り当てた気分です。
と同時に、自分の中途半端さにも気付かされました。
私みたいな中途半端な東洋人が
日本や東洋的な精神の本質を学ぶのに、
外国人が日本について記したものは、
まさに、ピッタリでした!

他に、鈴木大拙という仏教学者が「禅」について書いた、
膨大な英語のエッセイや論文の日本語訳
(日本人の英語の日本語訳ってのが面白い!)などもあることが分かりました。
これは彼が外国人に向けて、日本人の精神基盤について本気で伝えようと記したもの。
図書館に予約を入れてあるので、これから読んでみようと思います。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪

日本の伝統芸能や武道の世界などに触れたことがない人でも、
弓と禅」、オススメですよ~!
第2章から最後まで読んで、第1章に戻るといいかもです。
(私にとっては、第1章が異様に難しくて つまずいたので・・・汗;)

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by cembalonko | 2013-12-10 23:59 | 古武道 | Comments(0)

今月は古武術月間~♪

6月は、古武術の稽古に3分の1くらいしか参加できなかったので、
7月は、意を決して一度も欠席せずに頑張りました!
8月も、今のところは欠席せずに行けそう。なぜなら、
お盆休みは道場もお休みだから~ (^^)v

今稽古しているのは・・・

♪ 服気法(良い「気」を体内に取り入れるための、
  呼吸法と結びついた業と瞑想)
♪ 準備業(受け身や捌き技など)
♪ 短刀術
♪ 杖術
♪ 柔術(武器を使わない技)

杖術は、始めたばかりなので、まだとーっても無様・・・(-_-;)
杖の扱い方に、やっと慣れてきたところかしら。

柔術では、「第2の腰」と呼ばれている
「胸鎖関節」だけを使って技をかける稽古をしています。

実はこの「第2の腰」、楽器演奏に応用できるのではないかと思って、
試しているところなんですけど・・・
音色、変わります!面白いほどに!
チェンバロはタッチによって強弱の差が出ない、
っていうのは、真っ赤な「嘘」だということも
大分浸透してきましたが、
この鳴り方の違い、弾き手もビックリするほどです!!!
それが楽しくて・・・という不純な動機で(笑)
楽器の方もすこしは弾いてます~・・・汗;

さて、ここからは単なる覚書ですので、スルーして下さいませ・・・

== 杖術の型 ==
一本目 平構 正面受け 正面打ち
二本目 中段構 打ち落とし 脇突き
三本目 下段受 巻き落し 中段突き
四本目 脇構 正面受け 正面打ち
五本目 中段構 体捌き 横面打ち
六本目 平構 体捌き 横面打ち
七本目 太陽構 正面受け 正面打ち
八本目 無構 打ち落とし 脇突き
九本目 立構 体捌き 下段突き

・・・書いたら覚えられるかと思って。
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by cembalonko | 2013-07-31 16:43 | 古武道 | Comments(0)

教えて頂くことのありがたさ

昨日は、約2週間ぶりに古武術の稽古に参加できました。
他の同修のみなさんはお休みだったので、なんと師範と1対1!
ラッキーマンツーマン!(某英会話スクールでそう言ってた)
そりゃもう緊張しましたが、いつもより集中したよい稽古が出来ました。
音楽屋さんは、先生と一対一の緊張感には慣れてるかもね・・・

稽古後、日ごろ疑問に思っていることを、師範に質問させて頂きました。
最近、型の動きと意識の使い方に少しずつ慣れてきて、
心に雑念が浮かふようになってしまい、
それに対処する方法はあるかどうか・・・ (ネガティヴ君君臨中・・・(-_-;))

師範のお答え。ひとこと。
「工夫して下さい。これからが修行です。」
・・・そうですよね~~ 
自分で何とかしなきゃいけないですよね~~ 
ハイ、精進いたしまーす・・・

=====

師範の師範は禅僧で、
3年間通いつめた末、やっと入門を許されたそうですが、
全く教えて下さらなかったそうです。
一つ一つの動きに対して、それが悪い時に「悪い」と言う以外、何も。
師範はそこから、ご自身でその禅僧の技の極意とは何かを見出し、
ご自身で工夫され、技を身に付けるすべを編み出されたのでした。

私たちは、何かを習得しようとする時、
「教えてもらう」ことに、とても慣れっこになっていると思うんです。
楽器を教える立場でもある私も、私たちの先生がそうしてきたように、
「どうしたらその人が早く上達するか」
「どうしたらその人にとって分かりやすいか」を、
常に考える習性があります。
西洋音楽の場合は、徒弟制度によって即戦力ある職業音楽家を
育てる習慣があったことのなごりかもしれません。

手本だけ見せて、その習得方法を全く教えず、
自分自身で気付かせる、という教え方は、
確かに、膨大な時間がかかることでしょう。
しかし、そのやり方で、
自分自身の気付きの力で何かを習得した人と、
習得方法を懇切丁寧に教えてもらって、
いわは「近道」で習得した人とは、
きっと、何かが違うはずです。

「道」と名のつく日本の芸道はすべて、
精神性を伴っていると言われますが、
その伝承形態や習得のプロセスにも、
大切な意味があるとされているのでしょう。
師範の習われた禅僧は、
たった一人で伝承してきた技が 途絶えてしまうことを覚悟の上で、
あえて「教えない」方法を取っていた。
事実、多くの門人が途中で辞めていったそうです。
そうしてでも、いや、そうしなければ伝わらないものが
あったのだろうと思います。

陽明洞道場の福島師範は、
ご自身がそうした40年余りの修行の中で得られた極意を、
私たちには数年で出来るようになるように、と、
「近道」で教えて下さっています。
師範が生涯をかけて得られたのの重みに
比べられるものではありませんが、
人生半ばで何かを志し、残り時間も少ない中、
その一部でも教えて下さろうとする
お気持ちの有難さは、本当に身に染みます。


余談:
昨日のお話の中で、
道場に掲げてある宮本武蔵が書いた水墨画を指し、
何かに「なりきること」についてのお話を頂きました。

「同じ鵙(もず)の絵を書いても、2通りの絵師がいる。
鵙になり切ってしまう絵師と、
何を描いてもその人そのものになってしまう絵師と。
宮本武蔵は、何を描いても、武蔵なんです。」

そもそも武蔵が水墨画を描くことを
昨日初めて知った程度の私には、
絵を見ただけで、それがどちらかを見抜くことは出来ませんし~
でも、いつかそういう境地に達したいものです。
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これが道場に掛けられている水墨画「布袋観闘鶏図」。こちらからお借りしました。宮本武蔵
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by cembalonko | 2013-05-14 10:48 | 古武道 | Comments(3)

一 大 決 心 (はあと)

3週間限定おひとり様ディナー
手抜きご飯を楽しんでいるチェンバロ弾きですぅ・・・
毎日Facebookに見事な手料理の写真を載せていらっしゃる
某先輩ホルニストには、絶対見せられない夕食ですぅ・・・
今日のダンナは「職場に泊まるかも」と言って
お泊りセットを持って出勤。身体の事が心配です。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪

先月のある日。

ダンナ 「来月は、○○ちゃん(←私のこと)花の独身生活だよーん」
私(外) 「え?そうなの・・・(T_T)」  私(内)\(^o^)/ヤッター!チャーンスッ!
迫りくるダンナの惨状などものともせずに、
脳裏をよぎった言葉。どんだけ悪女やねん。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪

区主催のスポーツ教室の一環で、
古武道教室に通い始めて、はや、5年3カ月。
しばらく前から、
もっと柔術の技や身体意識を習得したい、
きちんと師範に弟子入りして、道場に通いたい、
という気持ちが芽生えていました。
でも、朝の稽古は出勤時間とかぶってダメ、
夜の稽古は夕飯の支度とかぶってダメ、・・・と
重たい腰を上げることは出来ませんでした。

そして訪れた、この大きな、
3週間限定おひとりさまチャーンスッ
これを逃したら、一生入門できないかも!と意を決し、
先週、道場に見学に行くことにしました。

遠いと思っていた道場ですが、
意外と近くのバス停が利用できることが判明。
その日は見学のつもりが、稽古にも参加させて頂くことが出来ました。
しかし!今までの体育館の稽古では出来ていた技が、
いかに「出来た気になっていた」だけだったかを
思い知らされた瞬間!!!ショーック!!!
つまり、稽古の参加者は、私を入れて5人だけだったので、
大人数の体育館での稽古と違い、
すぐ近くで師範や師範代に見て頂くことができ、荒が分かる。
こんなにも違うものなのだな、と驚きました。

さて、道場見学の帰り。
バス停まで送って頂きながら、師範代に
これからどうなさいますか?」と訊かれた時には、
まだ、お返事が出来ませんでした。
この期に及んでも、
これから忙しいシーズンだし」とか、
ダンナの夕食がいるようになってからどうする?」とか、
心の雑音は 消えてはいませんでした。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪

一昨日は、いつも通りの、体育館での稽古でした。
しかしこの90分で、私の心は決まりました。
先はどうなるか分からないけど、
道場通ってみるっ!通いたいっ!と。

その90分間の思考の中で、決め手となった事があります。
それは・・・

「道場に入門すれば体育館の参加費は払わなくて良いんだ!」(^^)

ああ、主婦根性・・・(~_~;) 理由はそれだけじゃないけどね・・・

♪ ♪ ♪ ♪ ♪

という訳で、今週、陽明洞道場に入門することに致しました。
これが言いたかったがために書いた長文に
お付き合い頂き、ありがとうございました。m(__)m スミマセン… 
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by cembalonko | 2012-09-10 23:56 | 古武道 | Comments(2)

そぎ落とすこと

今日から、平成24年度の第一クールが始まりました。

今朝、ブログをみて確認したら、柔術を始めたのは2007年の7月15日。
何と!4年9ヶ月経っていました!信じられない!
参加者の中でも長い方になりました・・・

各クールの初回には、参加者全員が円陣になって、自己紹介をします。
この、3ヶ月ごとの自己紹介で、
参加者のみなさんのこれまでの感想や、課題に思っている事などを聞くと、
共感することが多く、
また一緒に修行させて頂こう!という気持ちを新たにできます。

さて、今日、師範代がおっしゃったことで、とても印象に残った言葉がありました。

「本来の自分は、すでにそこにある
後から付いてしまったいろんなものをそぎ落としていけば、
すでにそこにある、本来の自分が現れるだけだから、
それは、誰にでもできることです。」

古武道で技をかけるには、まず脱力
そして、相手を倒そうとかくずそうとか、思わないこと
これができないと、技がかからないのです。
そのために、丹田と正中心(引力に対する体の意識上の中心線)に
常に意識を置く訓練をするのですが、
私なんかまだまだ、すぐに抜けてしまいます。

しかし、こんな私でも、集中して稽古した後は、
心も体もすっきり!
変な自己顕示欲や、見栄、妬み、悩み、煩わしい思いなどから
開放されることが、本当にあるのです。不思議!

(気のせいでないことを祈る!)
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by cembalonko | 2012-04-08 00:03 | 古武道 | Comments(0)

古武道と楽器の稽古について真剣に考えてみたVol.3

今日は、池袋の「明日館」で、
チェンバロとマンドリンのライブを聴いてきました。
先輩のチェンバリスト広沢麻美さんと石渕聡さんのマンドリンの演奏。
今月、2回目の明日館でした。それも両方ともコンテンポラリー。
広沢さんと石渕さんの「新作」が盛りだくさんで、
広沢さんがチェンバロで探した「新しい音」がたくさん聴こえて、
すごく楽しかったです。

最近考えていること。
古楽が演奏のauthenticityを求めるだけでなく、
コンサートのあり方にもauthenticityを求めるとすれば、
もっともっと「今」の人の音が聴きたくなるはず・・・
だって、クラシック演奏会が過去の「作品」と「作曲家」を
崇め奉るようになったのは、
メンデルスゾーンが「マタイ受難曲」を
復活再演したあたりからだもんね。(違ったっけ?)

♪ ♪ ♪ ♪ ♪

さて、「古武道と楽器の稽古」続きです。

柔術では、「型」を何度も繰り返し稽古することで、
「身体意識」を磨いていきます。それはすなわち
「型を身につけることによって、長年の身体の癖をとること」
しかし同時に、その「型に囚われてはいけない」という。
これは、何を意味しているのでしょうか。

柔術が実際に人の生死を分ける、実戦の場面で使われていた時代、
武士たちはこの身体意識を、究極まで磨いてきました。
ところが、この「型」を意識してしまった瞬間に、
そこには「隙」が生まれ、
それが、生死を分けたのです。

では、その「隙」って何なのでしょうか。

これも以前、師範がおっしゃっていた言葉ですが、
人間が本当に認識できるのは
「今この瞬間」「ここ」だけなのだそうです。
ところが、私達の頭の中は普通、
「今この瞬間」ではない
過去と未来のことで埋め尽くされています。
「あー!電車に乗り遅れる!」とか「晩御飯は何を作ろうかな?」とか
「昨日あそこのトリルうまく弾けなかった。どないしよう?」とか(笑)
あるいは、
「ここ」にないもののことで、埋め尽くされています。
「○○ちゃん、試験うまくいったかな?」とか「母の腰痛の具合はどうだろう」とか
「彼から電話かかってこないな(怒)」とか(笑)

この、「今この瞬間」「ここ」にないものに囚われた状態が、
「隙」なのではないかと思います。
(あるいは、「隙」と呼ばれるもののうちの一つ? 違ったらご意見下さいませ!)

仮に今、自分が武士で、刀を構えた相手が目の前に立っているとします。
相手が刀を振り下ろしてきました。
その瞬間、「型」を意識してしまったら、「今この瞬間」に「ここ」いなくなる。
つまり、隙ができ、確実に切られます。
怖いですね~ 戦国時代に生まれなくて良かったですね~

意識することなしに、身体レベルで反応するには、
「今この瞬間」「ここ」にいなければなりません。
もともと人間は、そこしか認識できないのですから。

「身体意識を磨く」ということは、
人間が認識できる「今この瞬間」に「ここ」にいること。
つまり、ただ「存在する」ことを訓練するのだと思います。

さて、演奏の場合と比較してみましょう。
演奏の場合も、「型」の稽古と同じく反復練習をする訳ですが、
これは何のためかといいますと、
まるで「歩いているかのように」「呼吸しているかのように」
自分が意識しなくても、
あるフレーズやパッセージが、思い通りに表現できるようになるためです。
「意識しなくて自然に」手指や身体が動くのが目標、
この点では、柔術の「型」の稽古と、似てなくはないです。

ところが、反復練習には、もうひとつの目的があります。
それは、
「何度弾いても、同じように、ミスなく、完璧に演奏できるようになるため」
演奏の金太郎飴状態を目指すのです。
そうすることによって、
「アタシはどんなことがあっても完璧に弾ける、
蠅の大群に襲われても(笑)甲虫が床を這ってきても(笑)」という自信が生まれる。

仮に今、演奏会の本番で舞台に上がったとします。
そして、もし、「私はこのフレーズ百発百中だから大丈夫!」と思って弾いたとしたら・・・
この時点ですでに、過去の「金太郎飴的に弾ける練習をした」という事実に
そこのフレーズがうまく弾ける「保険」を求めている訳で、
「今この瞬間」に「ここ」にはいない。
だから、表面上は完璧に弾けたように聴こえたとしても、
これでは、刀を大上段に構えた武士の前で、あっさり切られる状態・・・

演奏の場合にも、そこには捨てるべき「囚われ」がありそうです。
ですが、私達は、レッスンの時に一回でも間違えれば
先生に「もう、人間じゃない」みたいに怒られた経験を持ち
(今は知りませんが、私達の時代はそういう先生は少なくありませんでした)
そして「過去という保険に頼る」ための反復練習を余儀なくされました。
ここに、柔術の「型」の稽古との決定的な違いがあります。

でも私は、楽器の練習の中にも、柔術的にいう「身体意識」を磨き、
本当の意味での「隙」がない状態を訓練できるシステムが
組み込めるのではないか、と、思っています。
もちろん私自身は、今のところはまだ、演奏は演奏、柔術は柔術で、
しっかり修行・稽古するしかないのですが・・・
他に応用するなんて、100年早い! → 結局、一生間に合わなじゃん^^;

最後に一つ。
生まれながらにして
「今この瞬間」に「ここ」にただ「存在する」ことが出来る人が、
「天才」と呼ばれるのかもしれません。
それがどんな分野の人であっても。

「古武道と楽器の稽古について真剣に考えてみた」シリーズ、
とりあえず終わりまーす。
今回も、長文にお付き合い下さり、本当にありがとうございましたm(__)m
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by cembalonko | 2011-07-11 01:05 | 古武道 | Comments(2)